コンサルロケッツ STATION

芸術の最高形式はファルスである、なぞと、もったいぶって逆説を述べたいわけでは無論ないが、しかし私は、悲劇(トラジディ)や喜劇(コメディ)よりも同等以下に低い精神から道化(ファルス)が生み出されるものとは考えていない。しかし一般には、笑いは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ危く抹殺を免かれているくらいであるから、道化のごとき代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である。と言って、それだからと言って、私は別に義憤を感じてここに立上がった英雄(ナポレオン)では決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする──つまりこれが、すなわち拙者のファルス精神でありますが。
坂口安吾「FARCEに就て」
初出:「青い馬 第五号」岩波書店 1932(昭和7)年3月3日発行

 

冒頭から引用で失礼します。ロケッツ4号機です。
 

当ブログは「宇宙に関連する本」を紹介するというコーナー設定で
なんとなく始めて見たのですが、前回の投稿から気付けば1年以上のスパン。
 

自宅の書棚に並ぶ本を眺めながら「次のブログではどれを書こうかな」と思案しつつ、
結局そのままなにも決まらずしまいで、ボーッと過ごす体たらく。
 

・・・が!今回ようやく(無理やり)1冊、選び抜きました。
町田康『パンク侍、切られて候』(角川書店・2006年)。
 

パンク侍、切られて候
 

ところで夜、なかなか寝付けずにベッドでゴロゴロしながら、
真っ暗の天井を眺めていると、自分が果たして目を開けているのか、
はたまた閉じているのか分からなくなり、
 

そこに眠気も相俟って、
「なんだか宇宙を漂っているようだなあ」
と感じた経験、ありませんか?
 

ふわふわと漂う虚無の空間。
 

しかし、気持ち良い浮遊感も束の間、
ちょっとばかり込み入って宇宙のことを考えはじめると、
きまって襲ってくるのは、
 

そう「恐怖」です。
 

なにが恐怖って、
その広さですよね。
 

【宇宙の大きさ、凄さを実感する34枚の画像】
http://ailovei.com/?p=11592
 

どうやらリンク先によると宇宙の広さというのは、
ざっと137億光年らしいです。
ちなみに、これは地球から観測できる宇宙の広さ(光がそれ以上届かない)なので、
実際はさらに広いのでは?と言われているそうです。
 

でもって「光年」とは光の速度です。
でもって光の速度は、30万キロメートル/秒です。
 

これではよくわからないですね。
 

そこで、わかりやすく「自動車」で例えると、
30万キロといえば「廃車だなー」という距離です。
 

一気にわかりやすくなりましたね。
 

ちなみに、僕が去年まで使っていた自家用車(フィット)も、
30万キロで廃車にしたんですが・・・
免許取立ての11年前、大学時代から乗り回した愛車を廃車に出すというのは
なんだか切ない気持ちになるもんですね。
 

当時、お金も無いなりに頑張って中華料理屋のバイトで貯めた給料と、
当時付き合っていた同じ学部の彼女から20万借金して買った中古車でした。
 

いやあ、揉めました。でも頑張りました。
 

こうしてやっと手に入れた初めての車。
中古車とはいえ感慨もひとしおです。
 

2005年の夏、彼女を助手席に連れて海へと出掛けた。
知らない田舎町にも繰り出した。
BGMはくるりの「ハイウェイ」。
 

なにかでっかい事をしてやろう。
きっとでっかい事してやろう。
 

当時、僕はモラトリアムの権化でした。

そんなこんなで大学3年の頃、彼女に振られました。
雨降るコインパーキングの車内。
 

「はやくお金返してよ」
 

それが僕の聞いた、彼女の最後のセリフでした。
 

大学を卒業した僕は、社会人になってもこの中古車に乗り続けました。
お金もそこそこ稼げるようになって、正直何度かディーラーに新車を見に行ったりしたんですが、
試乗しても、どうもしっくりこない。ようは今の車に愛着が湧いてしまったんですね。
 

いまの奥さんとも、当時まだ付き合って間もない頃よくドライブに行きました。
僕の奥さんはガーデニングが趣味で、苗木や土、鉢などを買い込むもんですから、
よく車を出してと言われて・・・運転係をやってました(今もたまにそうですが)。
 

そんな愛車にも去年、とうとうガタがきてしまったんですね。
エンジン系の故障です。
修理に出せば直るらしいんですが・・・
結婚すると独身時代のように(ボロ車に)贅沢にお金を使うこともできなくなったことと、
やっぱり将来、家族が増えた時のことを考えて、仕方なく廃車にしようと決めました。
 

ふと走行メーターを見ると、300000を超える数字。
 

「これだけ走れば、たいしたもn」と呟くやいなや、
僕の頬を伝う、ひとすじの涙・・・。
 

30万キロの距離、過ぎ去りし11年の歳月。
 

光ならたったの1秒。
 

※ちなみに、あのYAZAWAは1秒で700万円程度稼ぐとのこと。
https://www.kkbox.com/jp/ja/column/reviews-209-23-1.html
 

それくらい、光は速いということです。
それくらい、すごい速いのに
宇宙の端っこまで行くのに、最低でも137億年かかります。
 

すごいですね。宇宙。
 

これだけのスケールを叩きつけられると、
もはや今晩のおかずに悩む事など、どうでも良くなってきますね。
 

そうこう駄文を書いていたら午後4時。
さきほど妻からLINEが入りました(本当)。
 

「今晩、お魚でいい?」
 

私の返信↓↓↓
 

「俺はいいけど、YAZAWAが何て言うかな?」
 

妻からの返信↓↓↓
 

「さあ」
 

その返信スピード、既読からわずか1秒。
※この妻とのやりとりの間も、YAZAWAは700万円稼いでいます。すごいですね。
 

ところで町田康の『パンク侍、切られて候』の舞台は、江戸時代。
「腹ふり党」と呼ばれる、一風おかしな新興宗教団体が巷を席巻。
「腹ふり党」の掲げる教義では、この世界は巨大な条虫(サナダムシ)の胎内であり、
この世の全てが無意味であると信じられています。
 

そんな彼らが唯一願うのは、条虫の胎外である「真正世界」への脱出。
党員はこの世界において無心に腹を振り、さらに悪事の限りを尽くすことで条虫が苦しみ、
すると異物(すなわち条虫の糞)として「真正世界」へと脱出できるというもの。
 

いったい、なんのことかチンプンカンプンでしょうが、
私も改めてあらすじをなぞりながら全く理解が追いついていません。
 

ともあれ町田康が本作において描かんとしているのは、
ずばり「本当とはなにか」というテーマだと思うのです。
 

この世において、なにが「本当」で、なにが「うそ」なのか。
 

言わずもがな、小説とは「言葉」を綴る表現方法です。
この「言葉」とは案外難しいもので、私たちの想像力の源であると同時に「想像力の限界」を示すものといえるでしょう。
 

たとえば、海を知らない少女に対して、
海の広さを伝えるには、どうすればよいでしょうか。
 

おそらく、どれだけ「言葉」だけで説明してもイマイチ伝わりきらないでしょう。
 

歌人であり劇作家、寺山修司はこのような詩を残しています。
 

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」
(『われに五月を』(昭32)所収)

 

つまり、ここで「われ」は海の広さをジェスチャーで伝えようとしたわけですね。
しかしながら、この字余りの詩には違和感を覚えます。
その違和感こそ、じつは「言葉」では伝えきれない歯がゆさのようなものではないでしょうか。
 

小説とは、フィクションです。
しかし当然ながら「小説内」においてそのフィクションは「本当のこと」として描かれます。
つまり作者の綴る言葉は「うそ」でもあり、同時に「本当」でもあるのです。
 

しかし「うそ」を通じてのみ伝えることが可能な「本当」もあるはずで、
それこそ、小説という手段、ひいては創作という営みの支柱となっているとしても過言ではありません。
町田康という小説家は、この「うそ」と「本当」との狭間において、
表現者としての宿命に挑み、「反抗(=パンク)」し続ける作家なのです。
 

宇宙とは、科学の進歩もさることながら、
宇宙に関しての記述に費やす「言葉」が増えれば増えるほど、
さらに広がっていくのではないでしょうか。
 

「宇宙の広さは137億光年である」
 

その「言葉」が「本当」であれ「うそ」であれ、
私たちはこの巨大な条虫の胎内で、
無心に腹を振り続ける「腹ふり党」の一員にすぎないのかもしれません。

はじめまして。ロケッツ4号機です。

この「ロケッツ図書館」というカテゴリーでは
私たちコンサルロケッツ乗組員が最近読んだ本、過去に読んだ本のなかから、
当サービスのコンセプトでもある「宇宙」に関連するキーワードをもとに
本紹介をしていくというコーナーです。
 
しかし、初めに言っておきます。
 
「宇宙」に関する本なんてもの、SF小説か、ゴリゴリの専門書か
もしくは児童向けの科学雑誌くらいしか思いつきません。
このままでは早々にネタが尽きてしまうため、
途中でコンセプト変更する可能性、極めて大と言わざるを得ません。
 
さて、そんななか記念すべき第一回目に紹介する本はこちら。
村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社・1999年)です。
 
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宇宙について多少なりとも詳しい方なら、すでにお察しでしょう。
本作タイトル「スプートニク」とは、旧ソ連が打ち上げた人工衛星の名称です。
1950年代後半、旧ソ連は「スプートニク計画」と称して計5基の衛星を飛ばしているのですが、
そのうち「スプートニク2号」に関するエピソードが、本作のプロローグとして登場します。
 
ところでスプートニク2号は、史上初めて地球軌道を「生物を乗せて」周回したことで知られています。
搭乗員は「ライカ」の名で知られる、1匹の雌犬でした。
道ばたで捨て犬として拾われたライカは、人類に先立ち、
ひょんなことから宇宙へと旅することとなったのです。
 
しかし、旧ソ連の計画はあくまで「生物を宇宙に連れ出す」こと。
スプートニク2号の地球への帰還は、もともと計画に含まれていませんでした。
記録によれば、機体からの通信は打ち上げの7日後、11月10日に途絶え、
打ち上げの162日後、翌年4月14日に大気圏に再突入して消滅したとされています。
 
スプートニク2号は、ライカを乗せて帰ることのない旅に出ました。
しかし、当時の、実験目的に作られた衛星の機内は決して広いとはいえません。
さらにライカはあらゆる計器で囲まれていたため、
餌を食べる以外、ほとんど身動きできない状態だったと言われています。
 
そんな宇宙船の中で、ライカは独り、なにを想ったのでしょう。
懐かしい草の匂い、大地を駆ける感覚、もしくは撫でられた手の温もり…
一匹の犬がどこまで考え、どこまで記憶を想起したのかなど、
私たち人間には想像の範囲を超えていますが、しかし
 
決してもう、二度と地球の土を踏むことのなかったライカは確かに、
筆舌に尽くしがたい「孤独」を感じていたことでしょう。
 
『スプートニクの恋人』では、このライカの逸話を冒頭に掲げて始まります。
ゆえに作品全体を通じ、どこか寂しい「孤独」の感じが、
まるで終わりのない通奏低音のように響いてきます。
 
本文中、このような言葉が挟まれます。
「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」
これは登場人物のひとり「すみれ」によって語られる台詞ですが、
おそらく著者、村上春樹自身の「人生哲学」的言葉と捉えても良いでしょう。
私たちが理解していると思っている物事は、私たちがそう「理解している」だけであって、
決してそれが正しいわけではないし、かといって間違っているわけでもない。
「私」がそう理解している物事を、同じように他者が捉えているという確証もないのです。
 
一歩踏み込めば「この世界に存在しているのは自分だけだ」といった
独我論的な思考に陥ってしまいそうな気になってしまいますが、
しかし、むしろ著者はこうした「孤独」を本作において、また別の作品においても、
正面から受け止めるための「心の在り方」を、模索し続けてきた作家だと私は感じます。
 
人前で賑やかに周囲を楽しませる人も、すました顔を装った女性も、
どのような人も内面には「孤独」を抱えて生きていると思います。
こうした私たちの「孤独」は、いわば自身と真摯に向き合うための装置であり、
決して、寂しさだけを生み出す厄介者ではないと思います。
真に「孤独」と向き合ったからこそ、得られる強さもあるでしょう。
 
また、人と人とが互いの「孤独」を通じて判り合えることもあるはずです。
この人とはウマがあうなあ、と感じるとき、それは互いの「孤独」が共鳴しているのかもしれません。
つまり「孤独」とは、決して「独り」という意味合いばかりではなく、
突き詰めれば、他者との交流(コミットメント)を生む重要なファクターとなり得るのです。
 
宇宙船の中、ライカは確かに「孤独」を感じたことでしょう。
しかし、それはスプートニクが地球をぐるぐると回り続けていたように、
どこにもたどり着かない、本当の、本当の孤独でした。
 
村上春樹は『スプートニクの恋人』で、なぜライカのエピソードを引用したのか。
すみれは、なぜ先のような台詞を口にしたのか。
村上春樹は、この作品で真に表現したかったことは何なのか。
 
それは、実際に読んでからのお楽しみです。

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